たまの帰省というのは、どうしてこうも普段は開けない場所の掃除から始まるのだろうか。

実家の押し入れの奥、なんだか懐かしいような、それでいてもう忘れてしまったような匂いのする段ボール箱の底から、それは出てきた。昔使っていた、今はもうすっかり見かけなくなった二つ折りの携帯電話、いわゆるガラケーというものだ。

ダメ元で充電器につないでみると、しばらくして、ぼんやりとした明かりが灯った。画面は小さく、なんだか頼りない。そこに映し出された写真フォルダを開いて、私は思わずフッと息を漏らした。

写っているのは、今よりもずいぶんと幼い友人たちと私の、間の抜けた笑顔。それから、何を思ったのか、公園に集まる派手なバイクの列を、物陰からこっそり撮ったもの。駅前で気持ちよさそうに寝ているおじさんや、空き缶を山ほど積んだ自転車を押しながら、こちらにピースサインを送るおじいちゃんの姿まである。

スマートフォンの高画質な写真と比べれば、どれもこれもぼんやりとしていて、ひどい写りだ。けれど、この一枚一枚には、今の綺麗な写真にはない、ざらりとした手触りのようなものが詰まっている気がする。忘れていたけれど、確かにあった、あの頃の時間の匂いだ。

それにしても、と改めて思う。部活帰りの夕方六時、さつきの植え込みに綺麗に頭から突っ込んで熟睡している酔っ払いがいる景色が、当時の私にとっては「いつもの帰り道」だったのだから、我ながらたくましかったものだ。大学へ進学するためにこの町を出て、初めて東京の街並みを見たときの衝撃は今でも忘れられない。「まあ、なんて道がきれいなのかしら」と、心底思ったのだ。

私の故郷である川崎は、同じ市内でも場所によって全く様子が違う。片や、高層マンションが建ち並び、おしゃれなカフェなんかもあったりする。もう一方は、どこか空気がどんよりとしていて、工場の煙がいつも空に伸びているような、そんな場所。私の実家は、もちろん後者の方だ。

そういえば、同じマンションに住んでいたおじさんは、コンビニエンスストアで煙草を買っている、ほんの数分の間に車を持っていかれた、なんて話もしていたっけ。エンジンをかけっぱなしで車を離れるのがいけないのだが、それにしても、である。

市内を走るバスに乗れば、「自転車の前カゴの荷物はひったくりの被害に遭いやすいため、ネットをかけましょう」なんていう、親切なんだか物騒なんだかわからないアナウンスが、当たり前のように流れていた。

もう二度とあの町に住むことはないだろうな、と頭のどこかで冷静に考えている自分もいる。けれど、こうして古い携帯電話を眺めながら、あのざらついた空気や、少しだけ間の抜けた人々の顔を思い出していると、なんだか妙な気持ちになってくるのだ。

結局のところ、私のどうしようもない十代は、あの町にあったのだ。

そう思うと、良いとか悪いとか、そういうことではなく、ただ、仕方がないなあ、と呟くだけなのである。

記事の感想をリアクションで伝える