本棚の特等席に、どんと鎮座している七冊の本がある。
北方謙三さんの『史記 武帝紀』だ。
七巻セットである。物理的にもけっこうな重さだし、場所もとる。それでも、これだけは手放せないどころか、なんと毎年一回は必ず引っ張り出して、最初から最後まで読み返してしまうのだから、自分でも呆れてしまう。「また読んでるの?」と旦那さんに訊かれたら、「ええ、まあ」とあいまいに笑うしかないのだけれど、私にとっては、これを読まないと一年が締まらないような、一種の儀式みたいになっているのである。
舞台は、漢の武帝の時代。
中島敦の『李陵』でおなじみの、あの時代だ。正直に白状すると、若い頃に最初に手にしたときは、単純に「カッコいいなあ」と思って読んでいた。衛青とか霍去病といった、キラキラした英雄たちが馬を駆って、匈奴と戦う。そのチャンチャンバラバラとした活劇が面白くて、ページをめくる手が止まらなかったのだ。だから、物語の後半で彼らがいなくなって、話がどろりとした政治の世界に移っていくと、「あれ、なんだか尻すぼみじゃない?」なんて、生意気にも思っていた。
ところが、である。人間、年をとるというのは不思議なもので、読み返すたびに、面白いと感じる場所が変わってくる。
あんなに地味だと思っていた、蘇武というおじさんが気になりだすのだ。彼は捕虜になって、北の果ての何もない荒れ地に流される。寒風吹きすさぶ中、ただただ生き抜くために狩りをし、孤独に耐える。昔の私なら、「早く戦のシーンにならないかな」と読み飛ばしていたような描写が、今読むと、ひりひりするほど胸に迫る。極限状態の中で、人はどうやって正気を保つのか。そんなことを考えて、暖房の効いた部屋で読みながら、なんだか背筋が寒くなってくる。
一方で、匈奴に降伏して生きる道を選んだ李陵がいる。意地でも降伏せずに耐え抜いた蘇武と、敵側で生きる李陵。立場は正反対になってしまった二人だけれど、ようやく再会する場面にくると、私はもう駄目だ。分かっているのに、毎回、ボロボロと泣いてしまう。国とか、立場とか、そんなややこしいものを全部取っ払ったところにある、男同士の友情。言葉少なに酒を酌み交わす彼らの姿を見ていると、理屈じゃない何かがこみ上げてくるのだ。
そして、十回くらい読み返してようやく、この小説の本当の主役が誰だったのか、腑に落ちた。タイトルの通り、これは武帝の物語なのだ。若い頃はあんなに輝いていた皇帝が、権力を持つあまりに疑心暗鬼になり、孤独を深め、ついには自分の家族や親族まで手にかけていく。かつての友人のような側近、桑弘羊との関係も切ない。どれだけ冷遇されても、武帝を友だと思い続け、死後もその遺言を守ろうとする桑弘羊の生き様には、ただただ頭が下がる。
北方さんの小説は、『水滸伝』も『三国志』も夢中で読んだ。どれも熱くて、面白い。けれど、なぜかこの『史記』だけは、特別に胸の奥の柔らかいところを掴んで離さない。やるせないのだ。読んでいて苦しいのだ。登場人物たちの「生」があまりにも濃くて、自分の日常が薄味に思えてくるほどだ。それでも、彼らがそれぞれの死を、そして生をどう受け止めたのかを確かめたくて、私はまた懲りずに第一巻を手に取る。たぶん来年も、再来年も、私はこの七冊と格闘している気がする。
そうやって、本と一緒に自分も少しずつ老いていくのも、まあ、悪くはないかなと思っている。
おまけに北方謙三先生の凄さがわかる動画を置いておきますね。
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