今日、うちの犬が十七歳になった。
犬の十七歳といえば、人間なら八十代半ばといったところか。もはや立派なご長寿様である。名前は「だてまき」。そう、あのお正月の重箱の端っこで、甘い誘惑を放っている黄色い渦巻き、伊達巻のことだ。
なぜそんな名前がついたのかといえば、私の食い意地の張った幼少期の記憶にさかのぼる。
私の家は、父が大工で母は病気がちだった。母は持病のせいで一年の半分ほどを入院生活に費やしており、職人気質で仕事に追われる父に、家事や育児などという器用な真似ができるはずもなかった。そんなわけで、母のいない間、私は父方の祖母の家に預けられていた。場所は世田谷の代沢。近所には有名歌手や元首相の邸宅が並ぶような、いわゆる高級住宅街である。
おばあちゃんは料理上手だったが、いかんせんその味つけは「素材の味を活かす」という名のもとに、子供の舌にはあまりに薄味で淡白すぎた。
口の悪い孫は、生意気にも「味がしない」などと不満を漏らしたらしい。今思えば申し訳ないことこの上ないが、困り果てた祖母は、よく近所のお蕎麦屋さんから店屋物を取ってくれた。祖母の注文は、夏だろうが冬だろうが決まって「鍋焼きうどん」だった。
なんでも三重県の伊勢出身の祖母にとって、うどんはソウルフードだったらしい。孫にもその味を、という親心だったのだろうが、子供の私にとってうどんそのものはどうでもよかった。お目当ては、土鍋の蓋を開けた瞬間に湯気の中から現れる、あざやかな黄色の伊達巻だ。
その蕎麦屋の鍋焼きうどんには、なぜか必ず一切れの伊達巻が鎮座していた。
地域性なのか、その店の主人の気まぐれなのかは知らない。とにかく、その甘くてふわふわした黄色い物体を口に入れた瞬間、子供の私は「この世にこんなにうまいものがあるのか」と震えた。うどんなんかいらないから、丼いっぱいの伊達巻をよこせ、と本気で願ったものだ。そんなわけで、鍋焼きうどんの上の宝物は、私にとって幸福の象徴として脳裏に焼き付いた。
だから、中学生の時に我が家にやってきた茶色くて丸っこい子犬を見たとき、直感で「だてまき」と名付けたのは、ある意味で必然だったのかもしれない。
それから十七年。本当にいろいろなことがあった。震災があり、父がいなくなり、私が大学へ入り、あろうことか学生結婚をして極貧生活に突入した時も、彼はそばにいた。私たち夫婦がひもじい思いをしていても、だてまきには良いご飯を食べさせた。
さすがに寄る年波には勝てず、最近はどうしても「その日」のことを考えてしまい、夜中に一人でメソメソしたりもする。けれど、朝になれば彼は「飯はまだか、散歩はまだか」と私を叩き起こしにくる。おかげで湿っぽい気分は吹き飛び、強制的にハッピーな一日が始まるのだ。幸い、今の職場は犬同伴が許されている。出勤も退勤も一緒。二十四時間べったりだ。ヨーロッパならいざしらず、日本では稀有な好待遇犬である。
誕生日の今日は、少し遠出をして高速道路を走り、サービスエリアでアイスクリームを買った。
もちろん、だてまきにはお腹を壊さないように、スプーンの先についた甘い雫を少し舐めさせるだけだ。それでも彼は、家族みんなで何かを食べているという空気が嬉しいのか、茶色い顔をほころばせてニコニコしている。
十二月の空気は冷たいけれど、車の中は日差しでポカポカしている。写真に撮ったら、きっとふんわりと淡い色になるような、そんな穏やかな時間。まるで古い映画のワンシーンのように、淡く滲んだその光景を見ながら、私は思う。こんな穏やかな時間が、一日でも長く続けばいいのに、と。十七歳の誕生日おめでとう。伊達巻のように甘くて、味わい深い一年になりますように。
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