どうにもこうにも、最近のインターネットというのは、こちらの気持ちを少しもわかってくれないらしい。
事の発端は、十年以上も律儀に働き続けてくれた、我が家の電気ケトルである。少し前から接触が悪くなり、ついにうんともすんとも言わなくなった。お茶を飲むにも、味噌汁を作るにも、あれがないと始まらない。仕方がない、新しいものを買うかと、重い腰を上げてパソコンの前に座ったわけだ。
「電気ケトル おすすめ」などと、素直な言葉を打ち込んでみる。すると、ずらりと並ぶのは、「【最新版】プロが選ぶ!間違いのない電気ケトル10選!」だとか、「これを買えば間違いない!生活を豊かにする逸品」だとか、なんだかやたらに立派な肩書きの記事ばかり。どれもこれも、白くてきれいな背景に、新品のケトルがすまし顔で鎮座している写真が載っている。
しかし、である。私が知りたいのは、そんなことではないのだ。
知りたいのは、例えば、夜中にこっそりお湯を沸かしたいとき、その「ゴオオオ」という音は、隣の部屋で寝ている家族を起こしてしまうほどではないか、とか。うっかり本体を濡らしてしまったとき、すぐに壊れてしまわないか、とか。そういう、日々の暮らしの中での、ささやかで、けれど切実なことなのである。
それなのに、画面に並ぶご立派な記事は、どれも「高性能な温度設定機能」だの「洗練されたデザイン」だのと、カタログに書いてあるようなことばかり。
いったい誰が書いているのか、顔も名前もわからない文章からは、お湯の沸く湯気の温かさも、それを毎日使う人の体温も、まったく感じられない。これでは、まるで機械が書いた説明書を読んでいるようだ、と思うわけだ。
結局、私が一番信用したのは、名前も知らない誰かが、スマートフォンの写真付きで投稿した、「これ買いました。ちょっと重いけど、すぐ沸くから便利」という、たった数行のつぶやきだったりする。あるいは、通販サイトのレビュー欄に書かれた、「星一つ。蓋の開け閉めが固くて、毎朝イライラします」という、正直すぎるほどの不満の声だったりもする。
ああ、そうか、と腑に落ちた。
結局のところ、私たちが探しているのは、専門家とやらのもっともらしい解説ではなく、「実際に身銭を切った人」の、正直な感想なのだ。その品物が、自分の暮らしに仲間入りしたとき、どんな良いことがあって、そして、どんな「ちょっと困ったこと」が起きるのか。その、生身の人間の物語が知りたいのである。
なんだか、小難しいことを言う人もいるらしい。これからの時代は、AIがどうとか、検索の仕方がこう変わるとか。けれど、そんなことは、私にはよくわからない。
わかるのは、自分が何かを書くときには、少なくとも、自分で使ってもいないものを、さも知ったかぶりに書くのだけはよそう、ということだ。
「このケトル、デザインはいいんだけど、注ぎ口からお湯が垂れるのが玉に瑕なのよね」。まあ、私が書けることなんて、その程度のことである。それでも、昔の私のように、パソコンの前で「うーん」と唸っている誰かの、ささやかな助けになるかもしれない。
そう思うと、なんだか少し、愉快な気持ちになってくるのだ。さて、新しいケトルで、熱いほうじ茶でも淹れることにしよう。
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